トップページ

2008年11月

比丘たちよ、このようにすれば悟りの智慧と解脱が完成する

今回は、私は全く実現できていない、実践修行のお話しです。

まず、次の経典の記述をお読み下さい。

「比丘たちよ、出入息観を養成し、強化すれば、大きな効果があり、大きな利益がある。比丘たちよ、出入息観を養成し、強化すれば、『四つの注意力の確立』が完成する。『四つの注意力の確立』を養成し、強化すれば、『悟りにいたるための七つの支分』が完成する。『悟りにいたるための七つの支分』を養成し、強化すれば、悟りの智慧と解脱が完成する。
  (山本充代訳「中部経典第118経 出入息観(治意経)Anapanasati Suttaアーナーパーナサティ・スッタ」春秋社版)

スッタニパータとかダンマパダ(法句経)などの経典では、上に引用したような概論または要約のような記述しかありません。
ですから、具体的にどうすればよいのかが分かりづらいのです。

それに対して、長部経典(ディーガ・ニカーヤ)とか中部経典(マッジマ・ニカーヤ)は、かなり詳しく説明されています。
「中部経典第118経 出入息観」は、『四つの注意力の確立』や『悟りにいたるための七つの支分』の実践法を詳しく説明しています。

今までに紹介した経典の記述は、どちらかと言えば、単行本の帯に印刷されたその本に関心を持たせるための、キャッチフレーズもしくは、その本のハイライト部分のようなものです。

意味ありげで心惹かれるけれど、何となくその気にさせられただけで終りかねない。
お釈迦様の教えは、道=実践なんだと言われますが、言われている割には、その実践の具体的なやり方が説明されない。

例えば、ダンマパダ第183句に相当する漢訳、

 諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く
  衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い
  自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くせよ
  是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり

 183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。 
    (中村元訳「ブッダ 真理のことば 感興のことば」岩波文庫)

特に漢訳の読み下し文を読むと、なんだか悟ったような気分にさせられる。
でも、これだけでは具体的にどうやれば良いのか分からない。
すでに悟った人や、悟りに限りなく近い人はこれで納得なんでしょうが。

では、「中部経典第118経 出入息観」をよく読めば具体的なやり方が分かるでしょうか。

私には大変難しい。

そこで私のような者には、どうしても教師とか解説書とかマニュアルが必要になります。
だが、明治になって、西洋文化がどんどん流入するようになり、西洋でも仏教の研究が進んでいることを知り、日本の仏教とは全くといいほど異なるテーラヴァーダ仏教の存在を知り、そこで保存された経典(アーガマ=漢訳では阿含経)を知るまでは、この中部経典の記述に従った修行法を行なう宗派はなかった。

いまでも、こういう修行法を実践したいと思う日本人は、テーラヴァーダ仏教諸国(ミャンマー・タイ・スリランカなど)へ出かけていかなければならないようです。

これらの諸国では、今現在も真剣にお釈迦様の道を修行されている方が沢山居られるようです。

私のように片手間にかかずらうのでなく、ご自分の人生を投入し、この道を一生歩き続けようとされておられるようです。

手引書が日本語になっていますので紹介しておきます。

①三橋ヴィプラティッサ(円寒)比丘訳「観息正念 坐禅手引書 プッタタート比丘講義録」無料頒布本(詳しくは、http://d.hatena.ne.jp/daijyoubu/20061226)
②太田陽太郎訳「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法」
(春秋社)
③ウ・ウィジャナンダー大僧正訳「マハーシ長老著『ミャンマーの瞑想 ヴィパッサナー観法」(国際語学舎)

| | コメント (83) | トラックバック (0)

お釈迦様は死後どうなるのでしょうか?

今回もまた、中村先生と正田師の訳を対照させていただきながら読んでみたいと思います。

出典は、スッタニパータです。

バラモンの学生(永遠不滅のものを信じている)がお釈迦様に”解脱した聖者の死後”について質問しました。

1074   師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」
1075  「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
1076   師は答えた、「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
  (中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)

1074  世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、風の勢いで飛び散った炎が滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前と身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却〔の道〕へと去り行き、〔虚構の〕名称(概念)に近づくことはありません(名付けを離れた存在となる)」と。
1075  〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいはまた、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常恒であるため、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、どうぞ、わたしに、それを説き示してください。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。
1076  世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、滅却に至った者(解脱者)には、量ることが〔すなわち、量るべき尺度[よすが]が〕存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るべき尺度〕が存在しないのです。一切の諸法(もの・こと)が完破されたとき、一切の論〔へと至る〕道もまた、完破されたのです」と。
    (正田大観訳「スッタニパータ和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/)

バラモンの学生・ウパシーヴァが尋ねます。
”常恒であるため、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか?”

ほとんどの宗教は永遠なるものを求め、そのものに超越的な力を求め、彼に救いを求めます。

真摯な修行者ウパシーヴァも、究極的な救いを求めています。
ウパシーヴァは永遠不滅に憧れています。
お釈迦様から見れば、これが究極の欲望です。

お釈迦様の教えを信じる者は、何ものも欲せず、求めず、依存しないのです。
何かにすがり付こう、頼ろうという執着心を捨てなさいと教えられます。
何にすがり付こうが、頼ろうが、確実に死は迫ってきます。

その死から逃れるただ一つの手立ては解脱すなわち涅槃(ニルヴァーナ)なのです。

私は、私たちには二種類の生死があると思っています。

① 肉体の生死。誕生(母胎に生を得ること)と死(肉体の生命活動の停止)
② 初めて自分に目覚めることと、死によって二度と目覚めなくなること。

私たちは、自分の肉体の生死を実はほとんど知らないのです。
生命を得た瞬間の記憶を持っている人はいないでしょう。
同じように、何時自分が死ぬのか知っている人もいないでしょう。
そして、死という現象を意識する人はいないでしょう。
自分の肉体について分かるのは肉体の活動のほんの一部にすぎません。

ところが私たちは、この二つの生死を混同したままでいるのに気づかず、自分の生死をよく知っていると勘違いしているようです。

ウパシーヴァは明らかに霊魂の実在を信じています。
ウパシーヴァにとっては、②と霊魂は同じものでしょう。
頑迷は信仰ですから、ウパシーヴァはしつこく問いただすのです。
聖者は死後どうなるのかと。
自分という霊魂の行方が気になるのです。

”常恒であるため、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか”

常に老病死その他の苦に悩まされ続ける人(ウパシーヴァ)にとっては、無病となること、すなわち、恒常=変わらない=永遠不変なのだから、変化という現象である老いも死も病もなくなるというのが切なる願いなのです。

しかしお釈迦様が探究し体験した限りでは、人間が恒常であり永遠不変となることはあり得ないことなのでしょう。
そこでお釈迦様は永遠不変を獲得する道を目指さなかったのです。
あらゆる存在は無常である、というのが答えです。
自分のどこを観て見ても、恒常で永遠不変なものは見つからなかった。
すなわち、無我です。

真実は、私の願いとは関係なく、勝手に変化し続け病を得てやがて死んでしまう肉体に起る出来事を、私たちが(仕組みは不明だが)本当に在ると思い込んでいるだけだったのです。

この真実をありのままに知った者が、”名前と身体(名身)から解脱した牟尼”なのです。

在ると思ってしまったものに執着しないのですから、まさに、”強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって”、何もないのです。

名前と身体(私の意識そのもの)は妄想のようなものなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

私は存在しない?

今回は、正田大観訳「ウダーナ和訳」(http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/)の一節です。

7・1   上に、そして、下に、一切所に解脱した者は、「このわたしは、存在する」と観る者ではない。このように、かつて超えられたことのない激流を、さらなる〔迷いの〕生存なきために、解脱者は超え渡った。
7・6   彼の、〔渇愛の〕根が地に存在せず、〔渇愛の〕葉が存在しないなら、どうして、〔渇愛の〕蔓があるというのだろう。彼を、結縛から解き放たれた慧者である彼を、誰が、非難できるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕(ブラフマン)からさえも、〔彼は〕賞賛される。
7・8   彼に、身体の状態について気づき(念)が現起し、常に、一切時において、存在するなら、「あるいは、〔身体というものは〕存在すべくもなく、あるいは、わたしには〔身体というものが〕存在すべくもなく、あるいは、〔身体というものは、これからも〕有ることがないであろうし、あるいは、わたしには〔身体というものが、これからも〕有ることはないであろう」〔と〕、彼は、そこにおいて、時々刻々に住する者(いまここの瞬間瞬間に気づきある者)として、まさしく、〔正しい〕時に、執着〔の思い〕を超えるであろう。

このブログはお気づきのように世俗・世間・一般社会の常識とは全く違う世界の可能性を探究しております。

”解脱した者は、「このわたしは、存在する」と観る者ではない。”

上の言葉の意味は、普通に読めば、”私は存在しない”ということになる。

だが、普通の人は、はっきり自分を感じている。
だから、私は確かに存在する、と言う。

では、”この私は存在する”という時の”私”とは何を指しているのでしょう。

普通、私とは何だと問われれば、まず、自分の身体を指し示すでしょう。
私を護るために、何を護るかと言えば、まず、自分の身体でしょう。

では、身体を分解して(解剖して)調べると私は確認できるでしょうか。

現代人なら、身体(肉体)と一体になった精神(意識)を考えます。
意識は、現代科学でもまだまだ全容を解明できていないようです。
少なくとも、意識は、身体のような明確な形を持ったものでないことははっきりしています。

”私”というものには、これだけ明確な感覚・自覚・認識があるのですから、普通はみんな、”私”は確かに存在する(ある)と信じている。
私もまだまだ信じています。
その証拠にまだ死にたくないと思って、何よりもこの身体(生命体・生命現象)を後生大事に護っています。

しかし、お釈迦様は、”存在する」と観”ていないのです。
このことは、あなたが”無我”ということを”知っている”ということではありません。
私は恒常不変の”我(アートマン)”ではない、私には”我”が無い、という知識があるということでもないのです。
お釈迦様ははっきりと”観た”と言っています。
単なる知識ではないようです。
知識で”死”を超克することは難しいでしょう。

では、どうやって観たのか。

”身体の状態について気づき(念)が現起し、常に、一切時において、(気づきが)存在するなら、”観える、と述べておられます。

そうすると、あらゆる迷い・妄執の根元である渇愛がその根から断ち切られるのだそうです。
根を断ち切られたら、植物は枯れてなくなってしまいます。
その葉も茎(蔓)も花も実も、みんななくなります。

植物を譬えにした場合は何となく納得できても、その譬を現に生きていると意識できるこの私の場合に当てはめると俄かに納得しにくくなるでしょう。

生きたままで、一切の執着を断ち切れる(死も執着の一つですから、死をも断ち切れる)ということは、普通の理解では論理的じゃありません。
生きているのに、”わたしには〔身体というものが、これからも〕有ることはないであろう”ということは、どういう論理で可能なのか普通は疑問に思うはずです。

そこでもう一度蔓草の譬えに戻ってみましょう。
蔓が枯れたのは、根を断ち切ったからです。

つまり、生命体としての私の身体が確かに存在するという確信は何を根拠にしているのかを考えるのです。

この確信の根とは何でしょう。

はなはだあっけない言い方ですが、それは、やはり、渇愛であり、執着だということになります。

では、その渇愛や執着は、蔓草の根のようにはっきり見えるのでしょうか。

”身体の状態について気づき(念)が現起し、常に、一切時において、(気づきが)存在するなら、”
”そこにおいて、時々刻々に住する者(つまり、いまここの瞬間瞬間に気づきある者)として、”あるなら、はっきりと観えるのだそうです。

私の中に問題の”根”、渇愛・執着の生起する有様が如実に観えるのだそうです。

そうすると、私の身体は存在しないとはっきり分かるのだそうです。
残念ながら私にはまだ観えません。

もうお分かりのように、もし、私が存在しない、わたしには身体というものが存在しないと確信できれば、もう、死も怖くありません。
死ななければならないものが私には無くなったからです。

まるで屁理屈のようですよね。

これが屁理屈でない証拠は、経典の記述がほぼ一致していること、ミャンマー・タイ・スリランカなどテーラヴァーダ仏教諸国の比丘が実証している(らしい)こと、日本などの禅の修行者が同じような境地を体得しているらしいことです。

”らしい”と曖昧なのは、私が自分で目の当たり体得していないからです。
お釈迦様の教えで一番重要なのは、自分で体得することだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

過去・未来・中間(現在)のどこにも、何も執着するな

今回のスッタニパータの詩句は、中村先生と正田師お二人の訳を同時に読み比べながら読んでみたいと思います。

1098   師(ブッダ)は答えた、
 「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離シュツリを安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたにとって存在してはならない。
1099   過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執著しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
    (中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)

1098    世尊は〔答えた〕「ジャトゥカンニさん、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を取り除きなさい。出離〔の境地〕を『平安である』と見て、〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、あなたにとって、何ものも見出されてはなりません。
1099    過去にあるもの--それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何ものも〕掴み取らないなら、〔あなたは〕寂静の者として、行じおこなうでありましょう。
  (正田大観訳「スッタニパータ和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/)

   

当たり前のことですが、私たちは、死ぬ時に何一つ持っていくことは出来ません。
築き上げた名声も、財産も、家族も友人も、ペットも、宝石も、ブランド物も、何一つ持っていくことは出来ません。

出離とは、普通、出家して修行者となり、解脱・涅槃の道を行くことを意味します。

日本のお坊さんの出家を見慣れている皆さんにはピンと来ないでしょうが、お釈迦様の言う出家とは、まず、どうしても必要なもの、着物(ミャンマーやタイ、スリランカの比丘の着ている褐色(赤褐色)の衣)と托鉢用の鉢だけの生活に入ることです。

家族も財産もなにもかも放棄して、いわば、無一物になることです。

無一物になればすぐ解脱できるかといえば、それは無理です。

心や身体を捨てては修行が出来ませんが、その心と身体が曲者なのです。
美人を見れば心を惹かれ、あらぬ欲望が身体の奥から湧き上がるかもしれません。
「糞坊主!」とののしられて思わずカッとなるかもしれません。

ですから、物を捨てたら次に心と身体にまとわりついているものを捨てなければなりません。
好きだから欲しいという気持や嫌いだから要らないという気持をそのままにしておくと、結局何時までたっても出離以前と変わりません。

”諸々の欲望に対する貪りを制せよ”とは、心からも身体からも一切の貪り(好き・欲しい)と瞋り(嫌い・欲しくない)が湧いてこないようにすることだと思います。

私は家族に関して、どうしてあんなことをしてしまったんだろうと後悔し悔やむことが沢山あります。
私が死んだら家族はどうなってしまうんだろうと不安があります。

でも、よく考えれば、過去に関しても、未来に関しても、いや、中間(現在)に関しても、完璧ということは望めないでしょう。

いつか人は、そういう苦悩に悩みながら、思うようにならないことに苛立ちながら、底知れぬ不安に焦燥しながら、結局たいしたこともやれずに死んでいかなければならないのです。

普通人は、そうやって死ぬまであれこれとあくせくして生きて行くのです。

もし、あなたがそういう人生に少しでも疑問を持ったり、死を予感していい知れぬ不安を覚えたら、お釈迦様の言葉に耳を傾けてみましょう。

”出離〔の境地〕を『平安である』と見て、”過去にも未来にもその中間(現在)にも、何ものもにも執着せず、何ものも我が物としようとしないなら、
悩み事も焦燥も不安も苛立ちも生じることはないでしょう。

ただし、一つだけやらなければならないことがあります。
お釈迦様の言葉を信じて、”平安”を求めてみようと決心し、実行することです。
相当な決心が必要だと思います。
決心すれば、新しい人生が開けると信じています。

最後に一言。
皆さんの声が聞こえてきます。
「お前はどうなっているんだ。」という声が。
この声が聞こえなくなったら、私は本当にお終いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今を幸せに生きる技

372 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。
373 修行僧が人のいない空家アキヤに入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。
374 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。
 (中村元訳「ブッダの 真理の言葉 感興の言葉」岩波文庫)
  (正田大観訳 「ダンマパダ和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/も見てください)
    * ”不死のことわり”---この”不死”というのは、再死(生まれ変わりを繰り返し、何べんも死ななければならないこと)に対する言葉で、二度と生まれ変わりをしなくなることを意味する。

引用させていただいた中村先生訳、ダンマパダ372-374を素直に読めば、お釈迦様が示した悟りの境地(ニルヴァーナ)というのは、”死”んだあとに達成されるものでないと分かるでしょう。

ニルヴァーナを説明した次のスッタニパータ1086-1087の文章も、やはり、素直に読めば、どう生きてゆくかということを説いていると分かるはずです。

Sn1086  (ブッダが答えた)、
 「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
Sn1087  このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩ワズラいを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り越えているのである」と。(中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)

日本では、涅槃は、涅槃図とか涅槃会などといわれるお釈迦様の入滅(死)に関係した言葉となっているが、本来は、二つの経典からの引用にあるように、今どう生きるかという生き方、生きる技を示す言葉だったのです。

私には、どうしてなのか説明できませんが、現実に私たちは”今”を生きています。
過去の出来事を懐かしんだり悔やんだり、未来を危ぶんだり楽しみにしたりしながら、常に”今”だけにしか生きて行けません。
その”今”をどう生きていけば、本当に幸せに生きていけるのかという生き方の技が引用した経典に書いてあるのです。

では、その”技”とはどういうものでしょうか?

① 人のいない空家アキヤに入って心を静め真理を正しく観ずる
② 精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている
③ 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解する
④ この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ること
⑤ よく気をつけ、現世において全く煩ワズラいを離れた

配列を入れ替えてみると、どんな順序でどんな技を習得すれば良いかが分かります。

①②は、止観といわれる精神統一と瞑想による洞察、サマディ(定)とヴィパッサナー(慧)の習得を指していると思います。

精神統一(定)と明らかな知慧(慧)によって、自分をありのままに観て、③④を達成する。*私は全く出来ていません。

その後も、⑤のように生きていく。
これが本当に幸せな生き方なのだと説いているのです。

ここで気をつけなければならないのが、言葉(用語)です。
日常使う言葉ですが、実は、相当日常用語とは違う事柄を表現しているのです。

例えば、

A. ”観ずる”---”真理を洞察するために観察する”ことを言っているのですが、①②の修練をしていない人の観察力ではここで言う”観察”は不可能だと思います。

B. ”気づく”---これも同様で、本当に必要な”気づき”とは、何に気づくことなのかと言うと、特に①の修練を積んだ者に可能な、心の内に起る普段気づくことのない変化のことだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

こよなき幸せ

スッタニパータというお経の集成の中に、「こよなき幸せ」というお経があります。

そのお経の終りにある詩句を引用します。

267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。
268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。
269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。

このお経(説法)の相手は、一般の人々(世俗・在家の人)と比丘(出家してお釈迦様の教えを実践しようとしている人)の両方のようです。

第258の詩句から第266までの詩句は、一般の人々を対象としているようです。

それに対して、第267から269の詩句は、比丘を対象にしていると思います。

こよなき(この上ない)幸せは、どのようにすれば獲得できるのか。

① ”修養と、清らかな行い”とを実践すること。
 これは、比丘が自ら守ることを誓った戒(シーラ)をまもり、身体や言葉の悪行をおこなわないで、心を清浄な状態に保つことだと思います。

② ”聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得する”こと。
 これは、精神集中の修練(帝を通して心の平静さと気づきを養い、人間のありのままの真実を観察し、洞察し、迷妄を脱する真理(慧)を体得し、ニルバーナを体得することだと思います。

③ ”世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること”。
  これは、体得した”精神集中・心の平静さ・気づき”と真理(慧)の体得によって、一般社会でいかなる誘惑・困難に出会っても、二度とそれらに煩わされることなく生きてゆけるということだと思います。第269の詩句でこのことを保証しています。

この詩句を紹介したのは、お釈迦様の体得した幸せというのが、一般人の私たちが考えている”幸福”とは、明らかに違うことを示したかったことです。

つまり、第258の詩句から第266までの詩句で述べられている一般の人々が掴み得る幸せは、世俗の事柄から離れることができない状況のなかで獲得可能な幸せだと考えます。

しかし、お釈迦様の考える本当の幸せは、世俗の事柄にふれても、決して動揺しないということですから、必然的に、その幸せというのは、世俗の事柄とは別のものということになります。

私自身は、いまだに、世俗の事柄を離れられません。
そういう私に、お釈迦様は、お前が憧れ、求め続ける幸せは本当の幸せではない。
世俗の事柄を離れた、本当の幸せがある、ということをお釈迦様は教えてくれています。

経典を読むと、そういう”本当の幸せ”を獲得することは、決して簡単ではないが、真剣に励めば、誰でも得ることができると言っています。   

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

本当に”幸せに生きる”ことができる、とお釈迦様は説いた

ほとんどの日本人は、お釈迦様というのは”死後の世界の指導者だろう”と考えているでしょうね。

そしてもしかしたら、お釈迦様も仏像を拝んだんだろうなぁ、なんて考えているかもしれませんね。

お釈迦様も仏像の前で朝夕の勤行ゴンギョウ(”おつとめ”とも言い、お坊さんの日常のルーチン)をなさっていたのかなぁ、なんて考え始めたらもう、お釈迦様に申し訳が立たなくなります。

何かと揶揄されるお葬式仏教の当事者、お寺さんをイメージさせるこれらのお釈迦様観は、私は、かなり深刻な誤解だと思います。

お釈迦様は、神仏のご利益リヤクを喧伝する宗教家でもなく、宇宙の真理を説き明かす哲学者でもありません。

むしろ、科学者に近い態度で実際に人間をよく観察し、洞察し、理想の生き方を見つけ、それを実践した方なのです。

仏のような何かに成ることを教えたのではなく、どう生きれば良いのかを教えたのです。

だから、お釈迦様が説いた”幸せ”を得るために、”死ぬ”必要はないのです。

お釈迦様が説いた”本当の幸せ”は、今生きているこの世で得られるのだよと教えてくれたのです。

ただ、皆さんにはなかなか納得できないだろうと思うのが、この”本当の幸せ”の定義です。

この”本当の幸せ”と、ブランドバッグは無縁です。
永遠の愛も無縁です。
セレブも無縁です。
子供の立身出世も無縁です。
それどころか、幸せな家庭すら無縁なのです。
ギャンブルで大もうけは全く無縁です。

人類の歴史上もっとも幸せだったお釈迦様が亡くなった時、お釈迦様の傍に居たのは少数の弟子たちでした。
奥さんも子供も居ません。

何よりも変わっているのは、亡くなった場所が野外だったことです。

お釈迦様と縁の深い木、沙羅双樹サラソウジュの下で、着ていた布を地面に敷いただけの床で、吹きっさらしの屋外で息をひきとったのです。

お釈迦様の所持品(つまり財産)は、着ていた布と托鉢用の鉢一つだったと思います。

家も資産もありません。

それだからこそ、お釈迦様は”本当の幸せ”を生きることが出来たのだそうです。

だから、市場原理の競争の勝者も敗者も、楢の林に転がっている”どんぐり”なんですよ、って言ったのです。

市場原理の世界で勝者となり、得たもの(財や人・名声・自己満足)は、お釈迦様の言う”本当の幸せ”とは無縁なのだそうです。

というよりも、むしろ、そういう財や人・名声・自己満足は、害にこそなれ、何の益することもないものなんだそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

私は知り得たとおりに説き示そう

ほとんどの宗教は、教祖が知り得た神秘的な知見をもとに、人々に幸せや永遠の平安を保証しています。

それら教祖が得た知見そのものは、教祖以外が得ることは不可能だとされています。
誰でも神と会話できるのであれば、皆教祖になってしまい宗教が事実上なくなってしまいます。

ところが、お釈迦様の場合は、自ら、どうやって本当の幸せを得たのか語り、真剣に取り組めば誰でも得ることができると説いているのです。

お釈迦様の体験を、誰もが追体験出来ると言うのです。

こういう教祖はお釈迦様以外あまり居ません。

そういうお経の一つを見てみましょう。
スッタニパータの一節です。


1050   師(ブッタ)は答えた、「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」
1051   実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。」
1052  「われらがあなたにおたずねしましたことを、あなたはわれらに説き明かしてくださいました。あなたに他のことをおたずねしますが、どうかそれを説いてください。どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説き明かしてください。あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」
1053   師が答えた、「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに解いて明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」
1054  偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えるでしょう。」
1055   師が答えた、「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。
1056   このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わがものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」
 (中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)
 
 
その決定的な一言がこれです。
”わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。”(第1050)

現代の私たちは、すでにお釈迦様の教えを学習できますから、第1050、1051の詩句で説かれている、”苦”や”苦の原因”はある程度知ることが出来ます。

何べん騙されてもまた性懲りもなく男を求める女、或は、その反対。
偽教祖に騙されて大金や全財産をつぎ込んでしまう人。
ダイヤやブランド物を本気で信奉する人。
私もまたその一人なのですが。

お釈迦様は、どうして人はそういう傾向を持っているのかを探究して行き、ついに、修練して得た技、心の平静さと気づきと瞑想とによって、根本的な原因を洞察しました。

それが、
”実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。”
という真実です。

そして、さらにお釈迦様はこういいます。

”伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに解いて明かすであろう。”

他の宗教のように、はるか昔の教祖から伝承された教理・教条によって真理を得るのでなく、目の前に居るお釈迦様自身によって真理の獲得法が述べられ、それをこの世で(いま眼のあたり)実際に自分で体得可能なのだ、とこの第1053は説いていると思います。

だから、第1056の詩句でお釈迦様は、
”このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は・・・この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。”
と言って、”この世で”智者となって、苦しみを捨てられる、と説いている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ