過去・未来・中間(現在)のどこにも、何も執着するな
今回のスッタニパータの詩句は、中村先生と正田師お二人の訳を同時に読み比べながら読んでみたいと思います。
1098 師(ブッダ)は答えた、
「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離シュツリを安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたにとって存在してはならない。
1099 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執著しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
(中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)
1098 世尊は〔答えた〕「ジャトゥカンニさん、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を取り除きなさい。出離〔の境地〕を『平安である』と見て、〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、あなたにとって、何ものも見出されてはなりません。
1099 過去にあるもの--それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何ものも〕掴み取らないなら、〔あなたは〕寂静の者として、行じおこなうでありましょう。
(正田大観訳「スッタニパータ和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/)
当たり前のことですが、私たちは、死ぬ時に何一つ持っていくことは出来ません。
築き上げた名声も、財産も、家族も友人も、ペットも、宝石も、ブランド物も、何一つ持っていくことは出来ません。
出離とは、普通、出家して修行者となり、解脱・涅槃の道を行くことを意味します。
日本のお坊さんの出家を見慣れている皆さんにはピンと来ないでしょうが、お釈迦様の言う出家とは、まず、どうしても必要なもの、着物(ミャンマーやタイ、スリランカの比丘の着ている褐色(赤褐色)の衣)と托鉢用の鉢だけの生活に入ることです。
家族も財産もなにもかも放棄して、いわば、無一物になることです。
無一物になればすぐ解脱できるかといえば、それは無理です。
心や身体を捨てては修行が出来ませんが、その心と身体が曲者なのです。
美人を見れば心を惹かれ、あらぬ欲望が身体の奥から湧き上がるかもしれません。
「糞坊主!」とののしられて思わずカッとなるかもしれません。
ですから、物を捨てたら次に心と身体にまとわりついているものを捨てなければなりません。
好きだから欲しいという気持や嫌いだから要らないという気持をそのままにしておくと、結局何時までたっても出離以前と変わりません。
”諸々の欲望に対する貪りを制せよ”とは、心からも身体からも一切の貪り(好き・欲しい)と瞋り(嫌い・欲しくない)が湧いてこないようにすることだと思います。
私は家族に関して、どうしてあんなことをしてしまったんだろうと後悔し悔やむことが沢山あります。
私が死んだら家族はどうなってしまうんだろうと不安があります。
でも、よく考えれば、過去に関しても、未来に関しても、いや、中間(現在)に関しても、完璧ということは望めないでしょう。
いつか人は、そういう苦悩に悩みながら、思うようにならないことに苛立ちながら、底知れぬ不安に焦燥しながら、結局たいしたこともやれずに死んでいかなければならないのです。
普通人は、そうやって死ぬまであれこれとあくせくして生きて行くのです。
もし、あなたがそういう人生に少しでも疑問を持ったり、死を予感していい知れぬ不安を覚えたら、お釈迦様の言葉に耳を傾けてみましょう。
”出離〔の境地〕を『平安である』と見て、”過去にも未来にもその中間(現在)にも、何ものもにも執着せず、何ものも我が物としようとしないなら、
悩み事も焦燥も不安も苛立ちも生じることはないでしょう。
ただし、一つだけやらなければならないことがあります。
お釈迦様の言葉を信じて、”平安”を求めてみようと決心し、実行することです。
相当な決心が必要だと思います。
決心すれば、新しい人生が開けると信じています。
最後に一言。
皆さんの声が聞こえてきます。
「お前はどうなっているんだ。」という声が。
この声が聞こえなくなったら、私は本当にお終いです。
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