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私は存在しない?

今回は、正田大観訳「ウダーナ和訳」(http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/)の一節です。

7・1   上に、そして、下に、一切所に解脱した者は、「このわたしは、存在する」と観る者ではない。このように、かつて超えられたことのない激流を、さらなる〔迷いの〕生存なきために、解脱者は超え渡った。
7・6   彼の、〔渇愛の〕根が地に存在せず、〔渇愛の〕葉が存在しないなら、どうして、〔渇愛の〕蔓があるというのだろう。彼を、結縛から解き放たれた慧者である彼を、誰が、非難できるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕(ブラフマン)からさえも、〔彼は〕賞賛される。
7・8   彼に、身体の状態について気づき(念)が現起し、常に、一切時において、存在するなら、「あるいは、〔身体というものは〕存在すべくもなく、あるいは、わたしには〔身体というものが〕存在すべくもなく、あるいは、〔身体というものは、これからも〕有ることがないであろうし、あるいは、わたしには〔身体というものが、これからも〕有ることはないであろう」〔と〕、彼は、そこにおいて、時々刻々に住する者(いまここの瞬間瞬間に気づきある者)として、まさしく、〔正しい〕時に、執着〔の思い〕を超えるであろう。

このブログはお気づきのように世俗・世間・一般社会の常識とは全く違う世界の可能性を探究しております。

”解脱した者は、「このわたしは、存在する」と観る者ではない。”

上の言葉の意味は、普通に読めば、”私は存在しない”ということになる。

だが、普通の人は、はっきり自分を感じている。
だから、私は確かに存在する、と言う。

では、”この私は存在する”という時の”私”とは何を指しているのでしょう。

普通、私とは何だと問われれば、まず、自分の身体を指し示すでしょう。
私を護るために、何を護るかと言えば、まず、自分の身体でしょう。

では、身体を分解して(解剖して)調べると私は確認できるでしょうか。

現代人なら、身体(肉体)と一体になった精神(意識)を考えます。
意識は、現代科学でもまだまだ全容を解明できていないようです。
少なくとも、意識は、身体のような明確な形を持ったものでないことははっきりしています。

”私”というものには、これだけ明確な感覚・自覚・認識があるのですから、普通はみんな、”私”は確かに存在する(ある)と信じている。
私もまだまだ信じています。
その証拠にまだ死にたくないと思って、何よりもこの身体(生命体・生命現象)を後生大事に護っています。

しかし、お釈迦様は、”存在する」と観”ていないのです。
このことは、あなたが”無我”ということを”知っている”ということではありません。
私は恒常不変の”我(アートマン)”ではない、私には”我”が無い、という知識があるということでもないのです。
お釈迦様ははっきりと”観た”と言っています。
単なる知識ではないようです。
知識で”死”を超克することは難しいでしょう。

では、どうやって観たのか。

”身体の状態について気づき(念)が現起し、常に、一切時において、(気づきが)存在するなら、”観える、と述べておられます。

そうすると、あらゆる迷い・妄執の根元である渇愛がその根から断ち切られるのだそうです。
根を断ち切られたら、植物は枯れてなくなってしまいます。
その葉も茎(蔓)も花も実も、みんななくなります。

植物を譬えにした場合は何となく納得できても、その譬を現に生きていると意識できるこの私の場合に当てはめると俄かに納得しにくくなるでしょう。

生きたままで、一切の執着を断ち切れる(死も執着の一つですから、死をも断ち切れる)ということは、普通の理解では論理的じゃありません。
生きているのに、”わたしには〔身体というものが、これからも〕有ることはないであろう”ということは、どういう論理で可能なのか普通は疑問に思うはずです。

そこでもう一度蔓草の譬えに戻ってみましょう。
蔓が枯れたのは、根を断ち切ったからです。

つまり、生命体としての私の身体が確かに存在するという確信は何を根拠にしているのかを考えるのです。

この確信の根とは何でしょう。

はなはだあっけない言い方ですが、それは、やはり、渇愛であり、執着だということになります。

では、その渇愛や執着は、蔓草の根のようにはっきり見えるのでしょうか。

”身体の状態について気づき(念)が現起し、常に、一切時において、(気づきが)存在するなら、”
”そこにおいて、時々刻々に住する者(つまり、いまここの瞬間瞬間に気づきある者)として、”あるなら、はっきりと観えるのだそうです。

私の中に問題の”根”、渇愛・執着の生起する有様が如実に観えるのだそうです。

そうすると、私の身体は存在しないとはっきり分かるのだそうです。
残念ながら私にはまだ観えません。

もうお分かりのように、もし、私が存在しない、わたしには身体というものが存在しないと確信できれば、もう、死も怖くありません。
死ななければならないものが私には無くなったからです。

まるで屁理屈のようですよね。

これが屁理屈でない証拠は、経典の記述がほぼ一致していること、ミャンマー・タイ・スリランカなどテーラヴァーダ仏教諸国の比丘が実証している(らしい)こと、日本などの禅の修行者が同じような境地を体得しているらしいことです。

”らしい”と曖昧なのは、私が自分で目の当たり体得していないからです。
お釈迦様の教えで一番重要なのは、自分で体得することだと思います。

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